氷河融解(ゆとり×氷河期SS)

一八九回。一生忘れられない数字だ。
絶望しかない氷河期の底、水沢宵子が落ちた就職試験の回数。
それはつまり一八九度に渡り、いらない人間の烙印を押された事に他ならない。
誰からも必要とされない、それは二十年経った今でも宵子を固い氷河で覆い続けていた。

* * * * *
「センパイ睫毛ながーい!」
数字の打ち込みに飽きたらしい三田が大きな瞳でキーを叩き続ける宵子を覗き込んだ。
「それ、つけまじゃないっすよね?いいなー!」
「……就業時間中にする話?」
宵子はパソコンのモニターへ向いたまま、小さくため息をつく。
「あなたの睫毛の方がよっぽど……」
「あたしのはニセモノだもん」
(だもんって……)
三田は今年の春に専門学校を卒業し、新卒で入社してきた。男ばかりの町工場、その事務所に久し振りに入ってきた女性の後輩は、話し方も振る舞いも宇宙人のように理解できないこともあり宵子は何度も眉間に皺を寄せることになった。
「あと少しで昼休みだから話してないで仕事なさい」
「あ、ほんとだ!どーりでおなかすいたと思ったあ」
壁掛けの大きな時計に目をやると、三田は前を向いて座り直した。やがてカタカタと打込む音がたどたどしく耳に届いてくる。この職場へ来て初めてキーボードをさわったという彼女も、六月に入った今では随分と打ち込むのが早くなった。
(東京の美容の学校に行って、どうしてこんな田舎の事務員になってるんだろう)
ちらりと盗み見た美しい横顔は、薄暗い町工場にはお世辞にも似合うとは思えなかった。

「宵子ちゃん、来月の休みの希望あったら言ってな。有給全然使ってないだろう」
終業のチャイムが鳴り、帰り支度を始める者達のざわめきの中で社長が声をかけてきた。
「希望ありません」
「そんな即答しないでさ、たまには羽伸ばしなさいよ。宵子ちゃん有給前に取ったの何年前?三田さんもがんばってくれてるし休んだら?」
「休んでもすることもないので」
宵子がぴしゃりと言うと、社長はまったくもう……、と頭をかいた。
「えーと、三田さんはどうかな?」
「ないでーす!有給が!」
隣のデスクでパソコンの電源が落ちるのを待っていた三田が笑いながら即答する。有給は半年勤務継続しないと発生しない。
「あ、そうか、そうだった」
社長はハハハと笑って三田の肩をポンと叩いた。
「半年待って、よろしく頼むな」
「はーい」
笑いながら工場の方へ歩き出す社長を見送りながら、宵子はノートパソコンをパタンと閉じた。何の変哲もない地味な事務服の埃を払う。車通勤で家と会社を往復するだけの宵子は、制服のまま通勤している。友達に見られたら女として終わっていると思われるだろう事はわかっていたが、終わってもいいと宵子は思っていた。
カバンを持って立ち上がると三田が話しかけてきた。
「どーしてセンパイは『宵子ちゃん』て呼ばれてんですか」
「……さあ?」
(どうしてって縁故採用だからだし)
真っ当に入社試験を受けて入ってきた三田に対して口をつぐんでしまう。
「あたし好きだな。センパイの名前。かわいっすよね」
本当のことを誤魔化したバツの悪さと、思わぬ褒められ方をしたせいで宵子は三田の方を振り向くこともできずに肩越しにおつかれさま、と小さく言って事務所をあとにする。
車に乗り込むまでの間、三田の下の名前を思い出そうとしたけれど思い出せなかった。

* * * * *

一八九回就職を断られた後、宵子は田舎に戻り叔父の経営するこの小さな町工場の事務員になった。宵子自身が必要とされたわけじゃない、情けをかけられただけ。その事実だけがいつも宵子を憂鬱にさせた。
事務と経理で常に二人の女性社員がこの会社にはいて、宵子が入社してからの二十年間にも入れ替わり立ち替わりもう一人が辞めていった。大半は結婚出産を機にしていて、それがまた誰にも必要とされていないと思う宵子の心に影を落としていった。
現在の同僚、三田茜はこの春専門学校を卒業して新卒で採用された。宵子も女性はたった二人だからとのことで面接に立ち会ったが、落とされた志望者と比べると、若さと顔で三田を選んだのではないかと勘繰らざるを得なかった。
それでも三田は自分の力で必要とされて採用されたのだ。宵子にとっては羨ましくもあり憎らしくもあった。

「三田さん、この発注書ファックスしそびれてない?発注出来てれば今日までに届くはずなんだけど」
終業時刻間近、主任の宮原がドアを開けるなり大声を出した。瞬時に席を立ち上がった三田の顔がみるみる青ざめていく。
「すみません!それあたし!です!送り先の確認しようとしたら他の処理を思い出してうっかり……」
「ごめんなさい、私も悪かったです。まだ三田さんに教えてなかったので」
宵子も立ち上がり三田をさえぎって宮原から発注書を受け取った。
「これ、今すぐ送っても大丈夫ですか」
「ああ、うん。帰る前に送っておいてもらえる?」
「はい」
よろしくー、と宮原は事務所から出て行く。残されたのは宵子とこの世の終わりみたいな顔をした三田だけだ。
「ご……ごめんなさい……」
宵子が自分の机に戻ると、三田がか細い声色を出して深々と頭を下げた。宵子はそれを意外に思い瞼を二度ぱちぱちとしてから、ゆっくりと顔を上げる三田を見つめる。
「あたしがちゃんと順番にやってれば迷惑かけることもなかったのに……」
「三田さん」
「……センパイあたし……」
「ファックスの送り先のリスト、ここに入ってるからまず取り出して。そんな顔してないでほら。さっきも言ったけど教えてなかった私の責任だし帰る前に送ればいいって言ってたじゃない。さっさと送って帰りたいでしょう?」
「……はい」
三田は目元を制服の袖で雑に拭うと、手際よくファックスを流し終えた。
「さ、帰りましょう」
「……はい、あの、センパイは悪くないですってあたし宮原さんに言います」
綺麗に紅を引いた唇から出た言葉に宵子は驚いた。
「あはは、バカねえ。宮原さんだって気にしてないって。ミスはしてもいいの。同じ間違いを何度もしなければいい。だいたいこんなたいしたことないミスで落ち込んでたら私なんてとっくに死んでる」
「死んでるって……」
宵子は事務も経理もパソコンもいっさいの知識を持たずに入社したのだ。新人の頃のミスやトラブルは専門学校で学んだ三田とは比べものにならないほど酷いものだった。毎日何の役にも立っていない、と帰宅してからひとり泣いていた。加えて宵子は三田のような明るさや社交性を持ってはいない。
「三田さんは良くやってる。ほら笑って」
「……センパイ……ありがとうございます」
「三田さんが入社してから社内が華やかになったって社長も言ってたし、明日はそんな顔しないで元気に出社なさい」
「……はい!」
ついさっきまでの青白い顔は嘘のようにキラキラとした笑顔の三田がそこにいた。宵子は初めてああ、社長達が言っていたのはこの事なんだ、と目を細めた。

* * * * *
「センパイ、お昼食べ終わりました?」
昼休み、食べ終わった弁当の蓋を閉めると三田が覗き込むように宵子に話しかけてきた。
「食べ終わったけど……どうして?」
「那岐くん達とバレーボールするんだけどセンパイも一緒にどうですか?」
「ええ……?那岐くんって……若者だけで仲良くなさいな」
「他の人もいますよー。藤井さんとか」
藤井は宵子と同期でもうとっくに四十路のはずだ。
「藤井さんが良くても私は無理。肩が上がらないもの」
「ええー!一緒にやりましょうよ!ちょっとだけ!」
「みーずさわー!オマエもちょっとつきあえよー」
ぐいぐいと手を引いてくる三田に辟易していると、その肩越しに藤井が顔を覗かせてきた。
「若者にはまだまだ負けないとこ証明しようぜー」
「ね!センパイも行こう!」
「はあ……」
小さくため息をついて宵子は観念して席を立った。

「無理、ほんと無理」
よろよろと中庭の隅のブロックに座り込むと、宵子は肩を押さえた。予想通り宵子の肩はさっぱり上がらず、回ってきたボールをトスすることなどもってのほかだった。
(わかってたのについ参加してしまった……)
小さくため息をついて顔を上げた宵子の瞳には、若者達がきゃっきゃと楽しそうに雲ひとつない空へ次々と白い球を放る様が映る。社長のような還暦越えも多いこの会社でこそ三田の若い美しさが引き立つものと思っていたが、ほぼ二十代のこの輪の中にいても三田の存在は変わらず美しかった。
「おーい、抜けるの早すぎだろー」
呆れた顔をして藤井が輪を抜けて宵子の方へ歩いてくる。
「私のことは放っておいていいですよ。バレー続けて下さい」
「冷たいこと言うなよ……水沢ならわかんだろ?このガッタガタの体」
「じゃあ藤井さんもやらなきゃいいじゃない」
「たまには若ぶってもいいだろ。ってか杉山さん参加してるんだけどあの人の体力どうなってんの」
笑いながら見遣る視線の先に大ベテランの杉山がいた。二十代の社員達に混ざって楽しそうにボールをトスしている。
「四十肩とかないのかな杉山さんは……四十というか、六十肩?」
「あの人はちょっと健康オーラがすごいからなー。吸い取られてるかも」
「かもね」
適当な相づちを打ちながら宵子の視線は無意識に三田を追っていた。煤けた工場の壁、抜けるような青空、真っ白なボール。そして田舎の小さな工場に不似合いな綺麗な横顔。
「三田さん、どう?仕事慣れてきた?」
「えっ、あ、うん」
不意に三田のことを聞かれ、心臓が飛び跳ねた。まるで彼女を見ていたことを見抜かれていたような気がした。
「……私が新人の頃よりよっぽど優秀。たまに意味がわかんないこと言ってるけど」
「意味わかんないこと?」
「やばたにえんとか言うし。宇宙人みたい」
「あー。そういうのか。でも案外ああいう明るい子の方が水沢はやりやすそう」
「え……」
「水沢はつまんないことですぐ鬱うつするからな。宇宙人相手じゃそんな暇ないだろ?」
そう言いながら藤井はバレーボールの輪の中へ戻っていった。
(伊達に同期じゃないってこと……)
でも別にやりやすいわけではない。そう思いながら宵子はそっと立ち上がり事務所に戻った。

「センパイどうしてさっさと戻っちゃうんですかー!もう!」
昼休みが終わる頃、自分のデスクに戻ってきた三田がふくれながら声をかけてきた。考えるまでもないでしょうと宵子は面倒そうに三田の方へ顔を向ける。
「若者に勝とうなんて無理なの、無理」
「ええー、杉山さんも藤井さんも上手でしたよ!」
「あの人達は私とは人種が違うから」
前を向き直してパソコンを立ち上げる。それ以上話が広がらないことを察したのか三田もおとなしく椅子を引いた。……のもつかの間、すぐに宵子の机に乗りだしてきた。
「センパイ、よかったらごはん一緒に食べませんか」
「お弁当ならさっきここで並んで食べたじゃない」
「違いますよ!晩ご飯です、晩ご飯!」
「……間に合ってるんで」
「うーんつれない!」
少しの間三田は頬をふくらませていたようだったが、十三時になりやがてカタカタとキーを叩く音だけが並んだ机から静かに聞こえるだけとなった。
(三田さんとふたりでご飯だなんて絶対に間が持たないと思うけど。三田さんは想像してないのか……)
淡々と入力作業を進める手元とは裏腹に、宵子の頭の中はもしもふたりきりで三田と食事をしたらという妄想でいっぱいになっていく。それはどう考えても楽しい結末にはならず、最後の数字を入力したあと素知らぬふりをして隣に座る三田の横顔を盗み見た。……つもりだった。
「……っ」
一瞬で心が跳ねた。三田は横顔ではなくはじめから宵子へ視線を向けていた。
「あっ、ごめんなさい!さすが打つの早いなあって……見てる間におまえもやれよって感じですよね……はは」
三田は慌てて照れ隠しするように両手をひらひらと顔の前で振る。その仕草や表情は宵子にはないものだった。
本当に可愛らしい、と思った。
「……そうね。残業にならないようにがんばって。ご飯行くんでしょう?」
「えっ、ご飯?」
「私と三田さんで」
「センパイ言い方!マジ無理ですよ、反則です」
そう言って彼女史上最高であろう速度で三田はキーを叩き始める。
宵子はその上擦ったようなリズムを奏でる指先を見て見ぬふりで眺め続けた。

「カンパイしましょう!カンパイ!」
駅前の居酒屋は仕事帰りの客でざわめいていたが、三田の少し高音の声はスーっと耳に届いてきた。
「何に乾杯するの」
「今日の入力作業が無事終わったことに!」
「ええ……そんなこと……」
「はい、かんぱーい!」
「……乾杯」
小さくグラスが鳴る。
「私なんかと食べてもおいしくないと思うけど。もっと気の合う若い子、会社にもいるでしょう」
「違うんですよ!センパイと話したいだけなんです!ってかお昼のお弁当だいたいセンパイと一緒に食べてますけどめっちゃ美味いですよ!」
息もつかずにまくし立てる三田に、やっぱりついていけないなと宵子は深く息を吐いた。

 

「だからー私はそんっだけいらない人間って事なの」
「もう……センパイ飲み過ぎですよ、もうおわり!」
何も話す予定はなかったのに久し振りに飲んだアルコールがまわり、宵子はあの最悪の氷河期の記憶を三田にぶちまけていた。
「いらないセンパイなんていないですって。あたしセンパイいなかったらめっちゃ困るし……」
三田の声はだんだん遠のいて宵子の記憶は途切れた。

* * * * *

「ああ……」
宵子はずきずきと痛む頭を抱えた。顔を上げると見知らぬカーテンが視界をかすめる。昨日はものすごく久し振りに人と飲んだ。当たり障りのない話をいくつかして、その後の記憶がない。
(こんなにお酒弱かったっけ……何話したかさっぱり覚えてないし最悪……)
身なりは昨日のままで服は着ている。鞄をたぐり寄せると携帯も財布もそのままだ。時間を確認すると十一時をまわっている。
(ここは三田さんの家……?)
白とピンクとキラキラした物で構成された六畳間は、子供の頃から彩度の低い色が好きな宵子には落ち着かない景色でしかない。襟を直すと宵子は逃げるようにドアを開けた。
「あっ、センパイ!起きたんですね。大丈夫ですか?」
薄ピンクのスカートを翻して三田が振り向いた。
「ここまで連れてきたの三田さん?重かったでしょう、ごめんなさい」
「ぜんぜん!あたしこうみえてめっちゃ力持ちだし!」
「この礼はまた今度するわ。帰るね」
「センパイ、お茶でも……」
三田の部屋は小さくすぐに玄関にたどり着く。三田の言葉を無視しパンプスに足をつっこむ。むくんでいるのかなかなか入らない。
「……夕べ私が何を言ったのかわからないけど、全部忘れて」
玄関のドアに手をかけた瞬間、三田の手がそのノブをひねるのを止めた。
「……っ、何……?」
「イヤですあたし」
「ええ……?」
「センパイが話してくれたことだもん、忘れるわけない」
重ねられた三田の掌は少し痛いくらい強く宵子の手を包んでいる。宵子はもう一方の手でそっとその掌を下へ下ろし、そのまま外へと足を向けた。三田の顔は振り返ることが出来なかった。
「……じゃあね。ここまでありがとう。また月曜に」
ドアを後ろ手で閉めて歩き出した宵子の足を無理やり押し込んだ靴は、重く締め付けられるようで、ついさっき重ねられた暖かい掌を思い起こすには充分だった。

* * * * *

工場の中庭は高く上がった太陽のせいでコントラストの強い葉陰がゆらゆらと揺れている。三田は営業先からもらったうちわでぱたぱたと少しだけ開けた胸もとを仰いだ。
「あーもーこんなに暑いのにまだエアコンつけないんですかー?」
「残念ながらつけることはほぼないかも」
「ええー……」
「工場はここより暑いんだから泣き言言わないの」
宵子はUSB扇風機を三田の方へ向けた。
「わーい!涼しい!」
「まあこの頃は本当に猛暑だしね。倒れないように気をつけて」
「はーい」
すっかり元気になった様子の三田は、扇風機にあああああーと声を吹き込んでいる。まるで本当の宇宙人のようだ。
三田に酔いつぶれて何を言ったのかは聞いていない。どうぜろくでもないことだとわかっているから。ただ三田の方から言ってくることはなかった。
(あんなふうに手を重ねるようなことも)
扇風機を持つ指先には綺麗に手入れされた爪がきらりと光った。仕事に支障のないように塗られた薄いピンクの指先を、ぼんやりと見つめていた。
「あ!センパイごめんなさい!扇風機借りっぱ!」
急に自分へ向き直した三田に、宵子は慌てて指先を隠した。そろそろ夏になるというのに乾燥した指先を三田の視界には晒したくないと思った。

「センパイ!うわーマジですか!めっちゃ偶然!」
B級ホラー映画の上映が終わりロビーへ出ると、聞き慣れた声が宵子の足を止めた。
「ほんと偶然……」
ふわふわの茶色い髪の毛とふわふわ広がるワンピース。大きくはないけれど良く通る高い声。三田は彩度の低い制服姿と別人のようで、まだ二十歳の少女なのだと嫌でも思わされた。
「センパイも映画ですか?ってか今観終わったってことはまさか……」
「もしかして三田さんも呪いの……」
「やだー!センパイがいるの知ってたら一緒に観たのに!あ、今から時間あったら下で討論しましょう!」
「討論?何の」
「呪いについてに決まってるじゃないですか!」
斯くしてオバサンとオンナノコは、昼下がりのフードコートで呪いについて討論する運びとなった。

短い夏休みの十四時。街外れのショッピングセンターは家族連れで賑わっている。飲み物を受け取り空いている席を見つけると、向かい合わせで腰を下ろした。いつもは横並びの机に座っているせいか、宵子は目の前のふわふわした後輩にやけにドギマギしてしまう。
(人が見たら親子だと思うだろうか)
宵子は三田から視線をはずすとガラスに映る冴えない自分を一瞥して、苦いままのアイスコーヒーを喉へと落とした、
「ほーんとびっくりですよ!でもよかったあ、マジ観終わった後もやもやしていち早くこのもやもやを誰かと話したいって思ったんで!」
すくったフロートのアイスが紅く透き通った唇に吸い込まれると、堰を切ったように三田が口を開いた。
「そんなの誰かと来れば良かったのに。友達とか……彼氏とか」
「誰もつきあってくれないんですよね、怖いの」
「ああ、そういうこと」
友達も彼氏もいないとは思えない華やかな容姿。否定しないところをみると友人も恋人もいるのだろう。宵子はますます自分が保護者に見えて苦笑する。
「だからセンパイに会えてめっちゃうれしい」
(嬉しいとか、酷い社交辞令。呪いの討論以外話せることなんかないのに)
共通点なんかあるわけない。宵子は影で、三田は光だ。
「そうだ!センパイ怖い映画好き?来月もまた観たい映画があるんですけど一緒にどうですか?」
「え?」
「……イヤだったらいいんですけど」
「嫌じゃないけどこんなオバサンと一緒にいても退屈でしょう。若い子は若い子同士で……」
「あたしセンパイのそーゆーとこキライです」
遮るように短く言い放ち、まっすぐに宵子を見つめる。思わず視線を反らす。
「嫌いなら誘わないで」
「違いますって」
立ち上がろうとした宵子の腕に白く細い手がしがみつく。
「ちょっと……」
「とりま座って下さい!あたしが言ってるのはセンパイはすぐ自分のこと悪く言いすぎなんじゃないかって事ですよ!」
無理やり席に戻されたと思えば、早口でまくし立ててくる。
「何がこんなオバサンといてもつまんないだよ!つまんなかったら誘うわけないじゃん!」
「ないじゃんて……あとつまんないとか言ってないし……」
「同じだし」
「でも実際私といても話すことないでしょう」
「いっつも話してるじゃないですか。お弁当の話、天気の話、仕事の話……」
「そんなの誰とでもする普通の話じゃない」
「じゃあ」
三田はふて腐れた顔でアイスの溶けかかったフロートのストローをくるくる回す。
「何の話をすればあたしとしかしない普通じゃない話になるんですか」
「何のって。そうね、どうすれば恋人が出来るか、なんて」
「好きです。つきあって。……って言えばいい」
やけにあっさり答える。
「言えるわけないでしょう」
「じゃあ練習しましょう」
「無駄なことはしない」
「ほらまた悪い癖ですよ。無駄じゃないし言ってみればいいんですよ」
「三田さんは言えば誰とでもつきあえてきたんでしょうけど、私は無理。まず言えないし、言われないし、言っても無理だって知ってるから」
「無理じゃないですって。言ってみて」
「もう無駄なことをする歳じゃないの」
「ムダじゃないから!はい!どうぞ!ここうるさいから誰にも聞こえないし」
辺りはザワザワとたくさんの人の声が混じり合って、宵子の静かな声はすぐにかき消されそうだった。
「お手本がないとね」
「!お手本!ってかあたしがセンパイに教えられることあるんだ!」
うわー!と両手で自分の頬を包んで大きな瞳をぱちぱちとさせると。三田は姿勢を正して宵子に向き直る。
「じゃあ……こほん。宵子さん、好きです。あたしとつきあってくれませんか」
「や……」
冗談でも言われたことのない台詞だ。言葉に詰まる。
「はい、言ってみて」
「……三田さん、わたしとつきあってくださ……」
「はい」
言いきらないうちに打ち返す返事。
「あたしつきあいます」
「……え……?」
何を言っているかさっぱりわからずに宵子の頭の中はクエスチョンマークで埋まった。
「あっ、あたしならセンパイに告られたらオッケーしちゃうってことです」
(何を言ってるの……)
混乱して眉をひそめると三田が慌てたように両手を振る。
「や、今のは練習だからカウントしないから!安心して下さいよ!」
「……安心……?」
「別にヘンな風に思ってるわけじゃなくて!あっヘンって言い方もひどい!あーもう……」
「ふふ」
ひとりで右往左往している三田に思わず笑ってしまう。
「じゃあお願いしようかな。三田さんに」
「ん……?」
「恋の仕方を忘れたオバサンに始め方だけでも教えてよ」
我ながら妙なことを言っていると気付いたが、そんなことはどうでも良かった。もう少しだけこの意味のないやりとりをしていたいと宵子は思った。

* * * * *

「つまんねえんだよ、おまえといても。会話のキャッチボールって知ってる?最低限で会話打ち切られたらこっちだってもう話しかけんのイヤになんじゃん」
彼は確かそう言っていた。短大の合同コンパでなんとなくつきあい始めた宵子の人生でたったひとりの人。上手に言葉をつなげないことは子供の頃から気付いていた。
彼との会話のようにそのつきあいも四季をまたぐこともなく終わりを告げた。それから今日まで宵子はずっとひとりだ。必要としない。必要とされない。二十年経って会話だけは少しだけできるようになった。それは日々のルーチンを乱さないようにするための努力だった。

「さむーい!」
袖の長いカーディガンからちらりと覗いた指先で、空気を入れ換えるために開いた窓を閉める三田の口元から白い息が漏れた。十一月になった。北関東の山際にあるこの町は真っ昼間の今も冷え込んでいる。
「暖房はいつになったらつくんですかね……」
掌を温めるようにはーっと息を吐きながら自分の席に腰を下ろした。
「エアコンはつかないかもね。ハロゲンヒーターが倉庫にあったからそれ持ってこないと。それか足元用のあんかもあったような……」
「そうなんですか……上はあったか下着重ねないとやばいっすね……」
真底嫌そうに眉を潜めると机に突っ伏す。柔らかそうな茶色の髪が陽の光に透けて宵子は思わず手を伸ばしそうになる。
「……センパイ」
「何?」
ゆっくりと三田が宵子へ視線を向けた瞬間、午後の就業時間を知らせるチャイムが響いた。事務所で食事を取っていた数人が工場へと戻っていくのを見送った後、三田は小さくなんでもないと呟いた。
「そこのふたり、今日急ぎの作業あったかな?」
パソコンを開いた途端、社長が声をかけてきた。
「今日は特には」
「じゃあ悪いんだけど宮野産業まで荷物届けてくれないか。挨拶がてら行く予定だったんだが手がはなせなくてね。片道一時間半かかるから……帰ってくるときに報告してくれればそのままあがっていいよ」
「はい。わかりました」
「若い女の子でもいれば先方も気を悪くしないだろう」
社長ははははと笑って渡すための菓子折の袋を三田に手渡した。

「お疲れ様です、水沢です。はい、今から帰りますので……はい、はい。社用車のまま帰宅しても大丈夫ですか?……はい、失礼します」
宮野産業での三田の褒められようは、今後の会社同士のつきあいもまだまだ安泰と思われるようなもので、本当は三田だけでいいのに対応に何かあった時のために保険として宵子も同行したのは明らかだった。美醜でこれほど対応に差があったのは久し振りだった。社用車の運転席に乗り込むと、宵子は短くため息をついた。
「センパイ、どうかしましたか」
助手席に乗り込んだ三田が首を傾げて覗き込んでくる。大きな瞳があざとくもあり、可愛らしくもある。
「……別に」
(仕方ない。私ですら三田さんに見とれることあるし)
やがて車が走り出すと三田は助手席でふんふんと鼻歌を口ずさみはじめた。流行りのバンドの曲だとわかる程度には、若者向けの歌を知らない宵子にも聞き覚えがあった。そのまま反応はせずに真っ直ぐな道路を道なりに走る。
「センパイ、来るときに言おうと思ったことなんですけど」
「何?」
「恋の始め方、思い出しました?」
予想していなかった質問に胸がざわついた。ハンドルを握る手が急に湿り出す。
「残念ながら思い出せないわ」
落着いて、前を見て。三田の方を見ないのは運転中だからだ。
「センパイ、このままどこか行きませんか?まだ早いし」
「就業時間中だし制服だし社用車なのに?」
「誰もみてませんって。ここ県外だし」
「……どこに行くの」
いつもなら絶対にまっすぐ帰るのに、三田がいいと言うならかまわない気がして通りの端に車を寄せた。

「選び放題!すごい!」
検索してたどり着いた小さなプラネタリウムは、貸し切りのようにがらんどうで経営が心配になるほどだった。三田はどこがいいかなあといくつか座り、宵子を手をひらひらさせて呼ぶ。
(子供の頃以来かも)
「センパイと星が見れるなんてうれしい」
小さくはしゃぐ三田がだんだん闇に飲み込まれて、やがて一面の星空になる。少しだけ首が痛かったがすぐにそんなことはどうでも良くなった。
(こんなにゆっくりしたのいつ以来だろう)
別に都会に住んでいるわけではないから、少しだけ車を飛ばせば満天の星はいつでも見られるはずなのにそんな気持ちの余裕はずっとなかった。むしろ生まれたときからずっと。
毎日を他人に迷惑をかけないように乗り越えるだけで宵子にはキャパオーバーで、恋なんかすれば相手に迷惑をかけるだけだと自分に言い聞かせてきた。
(……私がつまらない人間だから周りの人も私といるとつまらないのに)
見上げたたくさんの星や星座は少しだけ滲んで見えた。

「センパイきれいだったですね!」
「そうね」
三田は軽くステップを踏んで車へと向かう。
「楽しいですね!センパイ」
「……楽しい?三田さんは楽しいの?」
「あったりまえじゃないですか。センパイはちがうの?」
つまらないと思われ続けた人生。言葉に詰まる。
「……私つまらないでしょう?あなたみたいに笑ったり軽口を叩いたりできないもの。だから三田さんだって気を遣わないでつまんないって言ってい……わあ!」
ぱあん!と辺りに響くように三田が宵子の背を叩いた。
「痛……何するの!」
「センパイ乗って!」
「は?」
「早く乗れって言ってんでしょうが!」
「……っ!」
先輩に対してさすがにひどい口利きだと思ったが、宵子はすごすごと車に乗り込んだ。
「……乗ったけど」
「あたし言いましたよね。センパイの自己評価低すぎるとこ大キライだって」
「や……そこまでは……ちょっと痛い、離して三田さん!」
「ふざけんなよ、それってセンパイを好きな奴のこともバカにしてんだよ」
ギリギリと背もたれ押し付けられた手首を押し返すことも出来ずに唇を噛む。
「バカはそっちでしょう!いないもの。そんな人どこにも……っ」
一瞬で距離を詰めた三田に、もうそれ以上話せない様に唇を封じられる。
「……!」
暖かい感触はすぐに離れた。押し付けられていた手首もゆっくりと下ろされる。
「……なに……」
「あたしが!あたしが好きな人にそんなこと言って欲しくない!」
「……頭おかしくなった……?」
「センパイひどい!」
ドン、と胸を叩くとズルズルと背もたれを滑っていく。
「恋の始め方、思い出してないなら今から思い出せばいい」
ゆっくりと長い睫毛が迫ってきて、もう言葉を失っている唇がもう一度ふさがれた。
(恋の始め方なんて、思い出すどころか初めから知りもしないのに)
押さえつけられていた手首は優しく掬われ、冷たい指が隙間を結ぶ。宵子は息の仕方すらわからなくなっていった。
* * * * *

「三田ちゃん、ちょっと来てくれるー?」
背が高く浅黒い林が三田を呼んだ。三田より三年先輩の林は鈍い宵子から見ても、この頃は三田狙いが著しい。
クリスマスが近いこの時期、この小さな町工場でも唯一の独身美少女の争奪戦が始まっているようだった。
(楽しそうじゃない……)
軽口をたたき合う若者二人に「あとはお若い方だけで」と心の中で呟いて、宵子は食べ終わったお弁当箱のふたを閉めた。
別に三田が誰とつきあおうとかまわなかった。三田がほんの少しでも宵子を必要だと思っていてくれたのならそれだけで生きていける。
あの遠出の後、まっすぐ三田を家まで送った。狭い車内はとても恋が始まるような空気ではなく、二人とも押し黙って三田が車を降りるときに小さくすみませんでした、と呟くまでエンジンの音しか聞こえなかった。
翌日会社に行くのを躊躇したが、三田はいつもと同じに笑って宇宙語を話してバレーボールをしていた。
(恋なんて始まるわけない、ばからしい)
冷たい指先を温めるために両の手でさすり合うと、いくつかのささくれが引っかかった。
(もうカサカサなんてもんじゃないな……出涸らし……?いや、何も出てないか)
宵子は小さく自嘲するとクリームを塗ろうと引出しを開けたが、この後書類のファイリングがあるのを思い出していったん元に戻した。
そろそろ午後のチャイムが鳴る。三田と林はまだ談笑を続けていた。宵子は素知らぬふりでコピーを取るファイルを確認した。
ふと唇に触れると割れていたのか指先に血がついていて、三田はこんなことは一度もないのだろうと頬杖をついたその向こう側で笑っている口元を盗み見てため息をついた。
知らないうちに、恋は始まっていた。

「……ごめんなさい、指サックどこにやったか……」
人数分の書類を何枚かまとめる作業。かさかさの指先はまったく紙をはがす事ができずに悪戦苦闘してしまう。そんな宵子のそばから三田がぺらぺらと紙をめくってまとめていく。
「私もう一度指サック探してくるわ」
「待ってセンパイ、大丈夫。めくるのはあたしやるんでセンパイは閉じてください」
「……うん、ごめん」
「分担ですよ、ただの」
暖房の入っていない小さな会議室はカチャンと閉じる音だけが響く。
「もーすぐクリスマスですね、センパイ」
「……うん」
「去年のクリスマスとかセンパイどうしたんですか?デート?」
「デートとかどの口が言ってるの……イヤミ?……去年は普通に残業してたかな。ちょうど事務が私しかいなくて」
「えっ、ひとりだったんですか」
「妊娠して退社したから。ああほら、藤井さんと結婚して」
「藤井さん!へえ~!なんかセンパイと仲良さそーにしてるからセンパイ狙いかって疑っちゃった」
「藤井さんに悪いからやめて。ただの同期だし」
誰もが自分を選ばない。存在の必要のない人間がいることは身を以て知っている。今さらこんな事で傷つくことなどない。
「ふーん……」
「三田さんもクリスマス何か予定が合ったら有休ももう取れると思うし遠慮しないで言……」
「はい、完成!ここくっそ寒いんであっち戻りましょー!」
いつの間にか書類はまとめ上げられていて、三田が机にとんとんと立てて整えている。
彼女のクリスマスの予定は、わからずじまいだった。

* * * * *

「いやー、すまないねえ。パソコン新調しないとな」
社長が困った顔で頭をかいた。目の前には鮮やかなブルースクリーン。キーを叩くとピーと小さく響いた。
「大丈夫ですから社長は上がっていいですよ、クリスマス家族でやるんですよね?とりあえずやってみてダメだったら三田さんのパソコンに移してクラウドにいったん上げときます」
「や、ほんとすまないね。じゃあお先に。今日できなきゃ死ぬって訳じゃないんだからほどほどにな。宵子ちゃんもメリークリスマス」
「……メリークリスマス」
叔父である社長に小さく手を振ると、宵子はパソコンを強制終了させる。若い頃こそクリスマスを話題にしてきた同僚もいたが、今は宵子には触れてはいけない話題と思われている様だった。
「あーあ……」
壁の時計を見遣ると、終業時刻の十八時をとうに過ぎている。また今年もクリスマスイブが残業になってしまった。
(定時で上がってもいつもと同じなんだけどね……)
今日は工場も誰も残っていない。急ぎの納品もないから社長が早めに帰したのだろう。三田も終業のチャイムが鳴ると、宵子がパソコンのエラーで困っているのを知りながらお疲れ様ですとさらっと言って風のように出て行った。
社内争奪戦に決着がついたのだろうか。誰とつきあってもおかしくないし、原宿にいるようなキラキラした若者に混じって若い子が言うところのクリパをしているのかもしれない。
「あ、ついた」
再起動するとなんとか立ち上がり、今日の業務を黙々と入力していく。静かな空間にキーを叩く音だけが響いている。一歩外に出れば赤と緑とジングルベルであふれているのに、この事務所はそんなこと微塵も感じられない遮断された空間だった。
ため息をつくのもはばかられるほど静かだ。出かけたため息を無理やり飲み込んだ。打ち込んだデータを確認するとシャットダウンを選ぶ。
ぼんやりと窓の外を眺めると雪がちらついている。
(寒いと思ったら……)
机の下に丸めて置いたコートに屈んで手を伸ばすと、バンっ!と静寂の世界を打ち破るように扉が開いた。
「ぎゃ……っ!」
心臓が飛び跳ねて変に上擦った悲鳴が漏れた。
「ああ!ごめんなさい!勢いよく開けすぎた!」
三田が慌てて大口を開けた。両手に大荷物。髪に舞い降りたのだろう雪がきらきらと反射している。
「あー、センパイがまだいてよかった!他の人はいない……ですよね?やった!クリパしよう!」
「何言ってるの……?」
驚いたままの口が塞がらない。何故戻ってきたのかと眉をひそめた。
「何ってクリパ!わかるでしょ?ケーキ食べるんですよ!」
「……私もう帰るから三田さんも帰りなさい。ここは寒いし」
なんとか平常心を取り戻すと、さっき取り損ねたコートを引き寄せ立ち上がると、目の前にふわふわの髪。
「何してるの。もう警備入れて帰るよ」
「えー、ケーキだけでも食べましょうよー!ね!」
「……今からならいくらでも、そのクリパ?に参加できるんじゃない?友達か彼氏かしらないけど」
口にしたあとでちょっと嫌味だったかな……と思いながらパソコンの電源が落ちたのを確認してコートを羽織る。三田は両手に持っていた荷物……ケーキと飲み物だろう……を乱暴に自分の机に置くと、宵子の手を掴んだ。
「何……」
「センパイの手冷たいね」
「寒いから仕方ないでしょう。三田さんだって冷たいじゃない」
ついさっきまで外にいた三田の指先は、宵子より冷えきっている気がする。
「どうやったらあったかくなるか知ってる?」
「どうって暖房……」
「ブッブー、はずれ」
いたずらっ子のような上目遣いで笑ったかと思うと、三田はつないだ手を勢いよく引いた。
「……っ」
かみつくようなキスが息をさせないかの様に宵子の唇を塞ぐ。驚いて開いたままの唇には一瞬で遠慮もなく熱い舌が滑り込んだ。
「……っふ……」
引き離そうとしても力はどんどん抜けていくばかりで、狭い机の上に背中がもたれる。逃げられる場所はもうなかった。奥も裏側も舌先で撫でられて、やがて押しのけようとしていた掌はしなだれた。わずかに開いた隙間からお互いの声が漏れて、そのせいでさらに熱さが増していく様だった。
「あったかくなったでしょ……?」
やがて唇が離れると上気した頬をして三田が笑った。宵子は立っていられなくてずるずると冷えた床に座り込んだ。
「床についたらヤバイって……うぇっ、つめた!はいイス座って!」
何が何だか混乱する頭を整理も出来ないまま、三田に自分のイスに座らされた宵子はだらしなく開いていた足に気付いて慌てて閉じた。
「いいのに、閉じなくても」
「!……からかわないで。本当に迷惑」
「ああほら、その顔初めて見たし。あたしもっとセンパイに色んな顔して欲しいんですよね。んでそれぜんぶあたしだけが見たいです」
「本当に意味がわからない……」
「ねえ、センパイはずっと氷河期ってとこにいるんでしょ?」
三田の細い指先が宵子の頬をかすめてそのまま背中にまわる。
「どうしたらその氷溶かせるの……?」
ずっと氷河に覆われた宵子の心は、誰にも必要とされない自分という位置づけから抜け出すことをとうに諦めていた。……諦めていたのに。
「私つまんないオバサンだよ……?何十年も恋も出来ない様なカッスカスの」
「はは、カッスカスっていうならあたしの方だし。バカでゆとりで先輩に宇宙語話すなって言われて」
「だってわかりみが深いとか意味不明だし。褒めるときに無理、助けてって言うのとか本当にわからない」
「そう言ってるセンパイがほんともう無理だし……」
抱きしめられた首筋に軽く唇を押し付けられる。
「ふざけてないんでつきあってもらえますか」
「え……それはさすがに若い者同士で……」
「若い者って……」
三田は少し離れて、その表情を読み取ろうとするもぶはっと吹き出した。
「……なに……?」
「やだまじやっばい」
「ええ……?」
笑い転げながら自分の鞄から取り出した手鏡をそっと差し出した。
「ね、やっばいでしょ?」
鏡を覗いた宵子の口元は三田の真っ赤なリップでピエロの様だ。
「やっばい……」
宵子も笑ってしまう。
「このリップそんなにうつっちゃうんだー」
「男性から女性へのプレゼントを口紅にしてちょっとずつ俺に返してって言うじゃない」
「へえ~!じゃああたしもセンパイにあげますからちょっとずつ返してくれますか」
「またバカなこと」
「バカじゃなくてマジなんですってば。んもー……とりまケーキ食べませんか……って落ちてる!」
さっきぶつかって机から落ちたのか、小さなケーキの箱はつぶれて床に落ちていた。慌てて箱を開けると、中のケーキは片方に寄ってぐちゃぐちゃになっている。
「やっっちゃった……」
「食べれば一緒じゃない」
「だよね!はい!あーん」
「あーんって……んむ」
話すために開いた口の中へケーキが押し込まれ、不本意にもごもごとしてしまう。
「……おいしい。どこまで買いに行ってたの」
「それききますー?駅の裏側のとこまで車で行ってきたんですけど」
「全然知らない……ケーキ屋に行かないし」
「じゃあキライじゃなかったらあちこち巡りませんか?他にもおいしーとこいっぱいあるし!インスタ映えするとことかも」
「……私がインスタするわけないでしょう。私と行ってもつまらないって言ったと思うけど」
「だからそれマジやめろって言ってんですけど。あたしが思うにそーやって消極的でなーんにもしてないからそーゆー考えになってんじゃないんですか?」
「じゃあ三田さんは何にも考えてないからお局に向かってその態度なのね」
「はい、きたよお局。自分で言ってどうすんの」
三田は一瞬むっとしてから無造作に自分の口にもケーキを押し込むと「おいしー!」と笑った。
「……ごちそうさまでした。払うわいくら?」
「うっわ興ざめ!今くらいおごられてくださいよ」
「でも……」
「ってかあれですか?身体で払えって言われたいとか」
「最低!」
意地悪そうに笑う三田に宵子はスカートの裾を伸ばして座り直した。
「本当にそういうのやめてほしい。私はこのまま一人で静かにやっていきたいの。三田さんみたいな意味わかんない人に振り回されたくない」
「……」
三田はだまってそっぽを向いていたが、宵子の声に耳を傾けている様だった。
「……みんなから可愛がられて、ちゃんと必要とされてる三田さんを嫌いになりたいのになれなくて、でもわからなくて、全然何考えてるのかわからなくて」
言いながらだんだんと声が上擦ってくる。嗚咽の様にやっと絞り出した口元は赤で塗られたままケーキのクリームを追加して、他の誰かが見たらイブの夜に何をしているのかとバカにするに違いない。三田はゆっくりと宵子へ向きなおす。
「わかんないから知りたいんじゃないの?」
「知りたい……?」
「あたしはそう。あたしはセンパイがどうしてそーやって頑ななのか知りたいし、実際こうやって」
優しく頬に当てられた三田の掌は、とても冷えきっている。咄嗟に暖めようと自分の手を重ねたが、宵子の手の方がずっと冷たかった。
「ほら、今また見たことない顔した。それもっと見たいし知りたいし」
「……それは古代生物の研究みたいな興味でしょう?ゆとりの氷河期に対する」
「ちがうちがう。あたしの宵子センパイに対する、です。ほんとあーいえばこーゆーですね……だんだん心折れてきた」
下ろしたふわふわの髪がうつむいた拍子にケーキの箱に入りそうになり、宵子は慌てて三田を支え箱をずらす。
「……ふぇ……」
宵子の肩越しにぽたぽたと水滴が落ち慌てて顔を上げると、三田の大きな瞳から次々と涙がこぼれ落ちた。
「やだ……何も泣かなくても……」
「だってもうどーしようもないじゃないですか!センパイの氷マジ溶けないし!あたしじゃ役不足だってわかってんですよ!年相応のおじさんとかの方がいいってわかってんですよ……そんなんなれないじゃないですか、あたしは子供だし、バカだしセンパイには宇宙人って言われるし」
きらきらした水滴は頬を伝い床へ次々とこぼれ落ちていく。泣きわめく様子は二十歳の少女そのもので、宵子は困惑すると同時に初めて見たぐしゃぐしゃの三田の顔は今まで見た三田の中でいちばん眩しく見えた。
「……そういう三田さんなら私も見たい」
「え……」
「これってあなたの言う『知りたい』ってことかな」
宵子は三田の濡れた頬を袖でそっと拭って少しだけ笑った。
「そうですよ、絶対そう」
三田は逆手で雑に涙をはらうと、すっと立ち上がり宵子に手を差し出した。
「そろそろ帰りませんか?寒いし。ってかあたしん家そろそろめっちゃ良い室温になってるんでセンパイに来てほしいんですけど」
「……はい」
宵子は差し出された手を取った。
「やった!マジか!やった!」
「待って片付けないと」
宵子はてきぱきとケーキの箱をたたんで袋に戻し、荷物を用意してヒーターと電気を消し警備のスイッチを押す……手を止めた。
「センパイ?どうしたんですか」
「私、口拭いてなかった」
「あ!」
「待って拭くから」
ティッシュを取ろうと鞄の中へ手を入れた瞬間、その手を握られる。
「そのままでいいですよ、またすぐそうなるし」
「え……」
三田は宵子の口元のクリームを舐め取ると、かけっこで一等賞を取った子供の様に笑った。

* * * * *

 

「最近全然定時で上がれないですよね……」
マウスをくるくるといじりながら三田がため息をつく。決算目前の三月、経理と事務をほぼ二人で回しているこの小さな事務所は残業続きだった。
「まあでも随分楽になったよこれでも。私が入社した頃はまだ全部手書きだったし計算も電卓叩いて……」
「ありえない……ゆとりでよかった……」
「変な言い方」
「まあいいんですけど。センパイと一緒だし」
三田は一度大きく伸びをしてエクセルを開いた。
「でも帰宅してからの時間が短すぎてつらい」
カタカタと打ち込みながら不満そうな声。
「センパイがすぐ寝ちゃうから」
「年寄りだから夜起きてられないの。寝不足も肌に大ダメージだし。文句があるなら……」
「別に文句なんかないですよ。早く仕上げて早く帰りたいので黙ります」
それは宵子も同じだった。

「ん……っ」
玄関のドアを閉めるなり根こそぎ奪っていく様なキス。
「ちょっと……!」
えい!と三田の腕を掴んで放り投げると「うわあ」と尻餅をついた。
「いきなり何」
「だって時計見てくださいよ!十時!もうセンパイが寝てしまう!」
宵子は呆れた様な視線を送ると無視して居間へと歩き出す。宵子は時々三田の女子らしい部屋に遊びに来ていた。いつまでも落ち着かないが、その感覚も心地いい自分に驚く。
「センパイはもっとこうくっつきたいなーとかないんですかね?」
そんなことを思っていたとしても言える性格ではない宵子は、聞かない振りをするしかない。コートを掛け手を洗いうがいをして台所に立った。
「あー!今から料理したらマジですぐ!即寝る時間!食っちゃ寝になるし!」
「じゃあ食べないの?」
「食べますけども……」
頬をふくらまして宵子の横に立つ。
「すぐできる物にするから時間少しできるでしょ」
「えっ」
「……もし寝たら起こしてもいい」
「え……えっ、うわマジで?」
「だから邪魔しないで」
「あたし茶碗洗うしお風呂入れる!」
「……うん。お願い」
三田の言ってることはまだまだわからないことも多いけれど、彼女の言葉は、掌はいつも温かい。
宵子の氷に閉ざされた心はゆっくりと春に歩き出していた。

《了》

 

201901《帰り道はふたりで。》発行
今はゆとりちゃんよりあとの世代が社会に出てるんですよね!
とっても気になります