キライな女(OL/恋愛未満/SS)

「バッカじゃないの?」
彼女の紅く濡れたような唇から口癖のように何度もこぼれ落ちる言葉は、三十路をとうに回った白井響子にはとても不快だった。

彼女……宮園ちえみは二ヶ月前に響子の勤める片田舎の営業所に東京の本社から出向してきた。若くて派手で綺麗な彼女に営業所は華やぎ、男性社員も目に見えてやる気が向上したようだった。そう、はじめの頃は。
さすがに本社から来るだけあり彼女は厳しく、営業部の誰よりも実績を上げ出す頃には、彼女にちやほやする者はひとりもいなくなった。

「すっごいこと聞いてしまった」
昼の休憩時間、昨日まで本社に出張に行っていた川田がコンビニ弁当の蓋を開けながらニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。
「なんだよ、気味悪い」
向かいの席の小関が眉をひそめた。
「俺、本社で聞いちゃったんだよ。宮園さん、本社で直属の上司と不倫してこんな田舎にとばされてきたって」
「はあ?なんだその噂」
「それがかなり信憑性あるみたいでさ」
川田の隣のデスクの響子の耳にも、その情報は否応なく入り込んだ。
(不倫……かあ)
響子はそっと席を立ち、給湯室でコーヒーを入れる。コーヒーは少し苦かったがそのまま流し込んだ。
(宮園ちえみが不倫をしていたなら、私とは真逆)
響子は小さくため息をついて、飲み終えたカップを乱暴にゆすぐ。響子の夫は随分前から浮気をしていた。
「白井さん、いつまでゆすいでるの」
背後からかけられた声にどきりとしてカップを落としそうになる。振り返ると入り口に寄りかかるようにちえみが立っている。
「……すみません」
「別に怒ってないけど。それに白井さんの方がこの会社じゃ先輩なんだからそんなに縮こまらなくても」
「……あの」
「何?」
(宮園さんは不倫してとばされたの?)
響子は言えずに飲み込んでうつむく。ちえみは怪訝そうに体を曲げながら近づき、うつむいた響子を下から覗き込んだ。
「やだ、泣かないでくださいよ。私が先輩をいじめてるみたいじゃない」
全然困っていないような、本当にいじめてるような口調で、口元は少し笑っている。
言ってしまおう。遅かれ早かれこんな田舎では噂は急速に広まっていく。この給湯室を出たら、もうこの小さな営業所には知れ渡っているだろう。
「宮園さんは、不倫でここにとばされてきたって」
絞り出すような小さな声しか出なかったが、狭く静かな給湯室では充分すぎるくらいだった。ちえみは綺麗に化粧した瞼をぱちぱちと見開き、真正面から響子を見る。大きな瞳に自分が映っていて、響子は急に恥ずかしくなった。
「不倫?私が?」
「ごめんなさい!なんでもないの」
「なんでもなかったら聞いてこないでしょ」
「……川田さんが本社で聞いてきたって」
「は?バッカじゃないの?それ、白井さんも信じてるんですか」
ちえみは苦笑しながら、綺麗にそろったボブを面倒そうにかき上げた。
「別に誰にどう思われたって良いんですけど、なんかショックです」
眉間にしわを寄せて、ちえみは一歩響子に詰め寄る。響子も後ろに引こうとしたが流しにぶつかってしまった。うかつなことを言うんじゃなかった。自分の夫の不倫相手が彼女とは関係ない事はわかりきっているのに。不倫をする心理でも聞くつもりだったのか?自問自答が響子の頭の中でぐるぐると追いかけっこを始める。
「私、白井さんはそういう話を鵜呑みにしないと思ってたのに」
ふっと小さくため息をつくと、ちえみはくるりと背中を向けて悪意ある噂が広まってるであろう営業部へと戻っていった。響子はちえみの言葉をそっと繰り返した。
(「鵜呑みにしないと思っていた」……?)
彼女の驚いたように見開かれた大きな瞳は、本当に不倫なんてしていないのだろうと思わせた。
いや、そうではなくそう信じる事にしようと決めたのだ。どうしてかは響子自身にもわからなかった。

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数日が過ぎた。
残業ですっかり遅くなってしまったが、響子の部屋の窓に明かりはなかった。いつものことだ。夫は二年ほど前から自宅で眠ることはなくなっていた。どれくらいの間、顔も見ていないだろう。
鍵を開け明かりをつけると、いつもと違う事がひとつだけあった。
リビングのテーブルの上に一枚の紙が見える。白地に濃い緑の印字に夫の署名と捺印がされている。
(今更……)
その紙――離婚届だ――を響子はそっと手に取る。テレビドラマで何度も見た事はあったが手にするのは初めてだった。
(さっさとそうすればよかったのに)
スーツも脱がずに自分の名前を書いて、先ほど脱いだばかりの靴を引っかけるように履いて響子は歩き出した。二十分も歩けば深夜も空いている窓口があったはずだ。心なしか足元が軽い。久しぶりに空を仰ぐと、数えきれないほどの星が瞬いていた。

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「来月の頭なんだけど白井さ……あ、伊丹さん、出張……」
「白井でいいですよ」
響子の離婚はあっけなく受理され、名字が変わって狭いマンションに引っ越しをした。田舎のせいか単身者用の賃貸が選べるほどなかった事以外は悪い事などひとつもなかった。そう思っていた。

「もう二十年くらいこの会社にいるんでしょ?白井さん」
コーヒーを入れようと向かった給湯室から、年若い事務員の声が聞こえてきて響子は思わず足を止めた。
「だから白井さんじゃなくなったんだってば」
「もうすぐ四十路でしょ?今更離婚なんかしてこのしょぼい会社にずっといるわけ?」
若い女子社員達が集まっているようだった。またあとにしようとデスクに戻ろうとするが、足が震えて動かせない。
「もうとっくにお局なのにね」
「しかもいるかいないかわかんないし。空気過ぎて離婚されたんじゃないの」
「あたし噂で聞いたんだけど、伊丹さんの元旦那、うちらくらいのわっかい子と出来婚したらしいよ」
「まじでー?」
甲高い笑い声に響子は耳をふさいだ。田舎は噂話がすぐに広がる。この会社にも響子の元夫の同級生がいたはずだ。みんな本当の事だった。笑われる事は想定内だったし、他人が何を言ってきても平気なはずだった。なのに今、給湯室の入り口で震えるように動けないでいる自分を、響子は恥ずかしく思った。
「伊丹さん?そこに室町さんいます?事務の」
振り返るとちえみが書類を持って歩いてくる。変らず給湯室の中からは響子を笑いものにする会話が聞こえてきて、響子はちえみの腕にすがるようにその足を止めた。
(宮園さんに聞かれたくはない)
唇を噛み首を左右に振る響子を見て、ちえみはいつかのように目を見開いた。ちえみはちらりと給湯室を覗いてから、するりと響子の手を振りほどいた手で響子の背中をぽんと叩いた。
「あなた達、バッカじゃないの?くだらない噂話してる暇があるなら仕事くらいちゃんとしてもらわないと」
ちえみは早足で給湯室に入ると、持っていた書類を室町に叩きつけるように手渡す。
「え……なんですか」
「少なくともあなたたちがバカにしてる伊丹さんは、こんなつまらない間違いはしない」
怪訝そうな室町に書類の間違いを指摘するときびきびと給湯室から出てきたちえみは、驚いて唇が半開きの響子ににっこりと笑った。
「言ってやればいいの。バッカじゃないの?って」
給湯室にいた女子社員達が面倒そうに顔を覗かせ、響子を見てバツが悪そうな顔になる。
「ほら。言ってやったら?」
ちえみが耳元でささやいた。響子はたちまち心拍数が上がり、強く瞼を閉じる。
「……あの……」
ゆっくりと若い女子社員達を見据えると、ゆっくりと口を開く。
「しょぼい会社だと思うならさっさとやめたらどうですか?」
「……すいませんでした」
投げ捨てるように言い残して室町が足早に歩き出し、残りの女子社員は無言で続いた。
「言えるじゃないですか。離婚なんて気にする方がバカですよ、今どき」
ちえみが手を叩きながら響子を覗き込む。
「わ……私は……あなたの事も嫌いです」
小さな声を絞り出すように言うと、ちえみは肩をすくめて苦笑した。
「そうですか」
「いつも人にバカバカ言って、嫌いです。だけど」
急にあふれてきた涙に喉が詰まる。
「……だけど。いま嫌いじゃなくなった」
(私、バカだって笑い飛ばして欲しかったんだ。こんな事なんでもないって)
響子は乱暴に涙をぬぐうと、仕事に戻ろうと歩き出す。休憩時間はまだ一時間も後だった。
「ねえ、お昼用事なかったら一緒にどうですか」
背中越しにちえみの声が聞こえる。
「私、安くて美味しい店見つけたんですよ。車出しますし」
(何?かわいそうなお局を元気づけようって事?そんなの……)
「伊丹さんの事好きなんですよね、私」
(え、え……?)
好きなんて誰にも一度も言われた事はなかった。色々な事がなんとなくの人生。恐る恐る振り返るとちえみが困った顔で笑った。
「だから少し話しませんか。仕事じゃない事」
「……別に良いですけど」
響子は跳ね上がった鼓動を気づかれないように静かに言った。

《了》

2OL無配でした。気づけば35億的な雰囲気…
わざとじゃない